クンヤーイ・アーチャーン・マハーラタナウバシカ・チャン・コンノックユーン

 

幼少期

1909 :彼女は1909年1月19日水曜日の酉年、旧暦2月の白分の第10日にナコーンパトム県ナコーンチャイシー郡でコンノックユーン家の父プローイと母パンの間に生まれた9人兄妹の5人目の子とし生を受けました。彼女は教育を受けていませんでした。なぜなら、その時代は女児に教育を受けさせるという風潮がありませんでした。そのため、彼女は読み書きが出来なかったのです。両親の家は中流の農家で借金はありませんでした。

クンヤーイは両親の農業を手伝っていました。彼女はとても働き者で早朝の3時か4時には目を覚まし、朝から晩まで働いていました。そのため、友人たちからは“鉄の脛”と呼ばれていました。家の農業を担っていた彼女は逞しく、忍耐強い女性になりました。それはその後の彼女の波羅蜜を行なう人生において有益のある特徴となったのです。

クンヤーイの母は父よりも裕福な家庭でしたが、父がお酒のみでよく母と喧嘩をしていました。父は酔うと愚痴をこぼしては母に“このろくでなしの居候が”と怒鳴られていました。それを耳にした父は怒り心頭で子供たちに母の言葉を聞いたかと尋ねていました。クンヤーイは両親に喧嘩をして欲しくない一心で言いました。母の言葉は父のことを指して言ったのではないと。しかし、それが父をさらに怒らせ、“お前なんか500回生まれ変わっても耳が不自由になれ”と呪いのような言葉を吐かれました。クンヤーイはこの言葉に恐れました。なぜなら、父や母の言葉には効力があり、もし呪いの言葉を言われれば現実に起きると信じていたからです。

父の死 
1921 年:クンヤーイの父が亡くなりました。それはクンヤーイが畑仕事をしていた時でした。家に帰宅してからそのことを知り、悲しみに暮れました。父が亡くなる前に許しを得ていなかったのです。父の言葉はクンヤーイの心に刻まれ続けました。(クンヤーイ12歳)
ルアンプー・ワットパクナム・パーシチャルーンを知る

1927 ワットパクナムの住職ルアンプー・ワットパクナム・パーシチャルーンまたはプラモンコンテープムニー(ソッド・チャンタサロー)は人々をタンマガーイへと導き、そしてさらには天国や地獄、涅槃にも導き、亡くなった父や母、祖父母、親戚に会うことが出来るという噂が広まりました。それはあの世で父から許しを請い、耳が不自由になる呪いを解く希望をクンヤーイに与え、瞑想を学びたいという思いを抱かせたのです。彼女はルアンプー・ワットパクナムに会いに行くことを決意しました。その日から五戒を守り、時が来るのを待ちました。(クンヤーイ18歳)

ルアンプーに会うためバンコクへ

1935 :クンヤーイはルアンプー・ワットパクナム・パーシチャルーンに会うため決意し、母や兄弟に別れを告げました。財産の全て、彼女の土地は僧侶をしていた弟に譲り、貴金属は全て兄弟に譲ったのです。(クンヤーイ26歳)

クンヤーイがバンコクの親戚の家に滞在しているとき、ハン橋地区の富豪であるリヤープ・シカーンチャナーナン氏が20年以上もワットパクナムに寄進しいている後援者であると知りました。

クンヤーイの家は生活に困らない身分であると周囲にも認知されていますが、クンヤーイはそれらを全て捨てリヤプ氏の使用人に応募しました。それはワットパクナムに行く機会に恵まれ、ダンマを探求して父に会うことが出来ると考えたからです。

リヤプ氏の使用人として採用されると彼女は真面目に働き、良く仕事をこなすことから主に信頼され、大切なものが保管されている部屋の世話を任されました。

タンマガーイへと至り、地獄から父を救い、許しを貰う

リヤプ氏はルアンプー・ワットパクナム・パーシチャルーンの弟子であるクンヤーイ・トーンスク・サムデンパンを家に招き、瞑想を指導してもらいました。クンヤーイはクンヤーイ・トーンスクの世話を熱心にしました。クンヤーイ・トーンスクは家の主人にクンヤーイも瞑想に参加できるように話を通してくれました。それから毎日クンヤーイは家事をいち早く済ませ、瞑想に時間を作るようにしました。クンヤーイは真剣に瞑想に取り組み、ついにタンマガーイへと到達しました。そして、タンマガーイによって禅定に熟達しました。クンヤーイ・トーンスクはタンマガーイの叡智によって父に会う方法を教えました。クンヤーイはタンマガーイに到達した功徳を父に回向し、地獄から救い出すことが出来ました。そして、父から許しを貰うことが出来たのです。

ルアンプー・ワットパクナム・パーシチャルーンとの会う

1938年:クンヤーイはリヤプ氏に1か月間ワットパクナムで瞑想する許可を貰いました。クンヤーイ・トーンスクはクンヤーイをプラモンコンテープムニー(ソッド・チャンタサロー)大師の元へと連れて行きました。初めての礼拝でしたが、ルアンプーは彼女を目にすると言いました。“遅いじゃないか”と。なぜ彼がこのように言ったのか。それはタンマガーイの叡智を実践する高い素質を持った者を長い間心待ちしていたからです。彼は試験や選別することもなく、早速クンヤーイを叡智の部屋へと入れました。(高度なタンマガーイの叡智を学ぶための瞑想部屋)(クンヤーイ29歳)

メーチーと瞑想

ワットパクナムに訪れて1か月が経ち、クンヤーイは出家して優婆夷のメーチーになり、クンヤーイ・トーンスクと一緒に過ごしました。

クンヤーイのお勤めは毎日同じで何年も続けていました。一日の移動は寝泊まりしている部屋と食堂、そして叡智の部屋だけでした。彼女はタンマガーイの叡智によるブッダの教えであるダンマを学ぶことに一生を掛けていました。叡智の部屋での2回の瞑想に加え、彼女はどんな状況でも常に心を静止させてダンマに留め続けていたのです。お風呂の時でも、顔を洗っているとき、歯を磨いているとき、ご飯を食べているときでもです。

“チャンは、唯一無二の存在である”

1941:12月の半ば頃、大戦の最中に行われていた高度なタンマガーイの叡智を学ぶ瞑想は、24時間行われました。6時間ごとに班を分け、クンヤーイは昼にも6時間瞑想し、そして夜の班にまた6時間も瞑想を続けていました。クンヤーイの真剣さはタンマガーイの叡智を熟達させ、班のリーダーに任命されました。彼女は誰よりも熱心に取り組みました。自分の班が終わっても次の班と一緒に30分ほど瞑想し、ルアンプー・ワットパクナムが次の班のリーダーに指導する内容を聞いてから彼女は休んでいたのです。これを毎日繰り返していました。クンヤーイの知見はさらに明確になっていったのです。だからこそ、ルアンプー・ワットパクナムが何かを指示したり、質問したりしても正確に実践し、質問に答えることが出来ました。

タンマガーイの叡智を実践する中でクンヤーイはそれが推測や考察に基づいたものではないと明言しました。彼女は肉眼で目にするよりもさらにはっきりと見えると言いました。もし見えていなければ答えることは出来ません。心のレンズで拡大して見ているのです。全体を捉え、理解します。それは制限のある人間の肉眼で見るよりも見えます。努力してそこまで到達しなければなりません。

タンマガーイの叡智を意識し、常に心を体の中心に留め続けていました。やると言ったらやる人でした。だからこそ、彼女は熟達し、正確でした。ルアンプー大師からも大勢の瞑想者がいる中で“チャンは、唯一無二の存在である。”と褒め称えられたのです。

全ての弟子を呼び出したルアンプー

1954 年:ルアンプー・ワットパクナム・パーシチャルーンは全ての弟子を呼び出し、五年後に自分がこの世を去ることを報せました。そして、弟子たちに協力してタンマガーイの叡智を布教するように告げたのです。この叡智は世界中の人々を救うことができ、非常に重要かつ有益であると。(クンヤーイ45歳)

1959:ルアンプー・ワットパクナムは1959年2月3日午後3時にこの世を去りました。その日から高度なタンマガーイの叡智を実践していた弟子たちは、各地に散らばりました。クンヤーイはワットパクナムの三階建ての家でクンヤーイ・トーンスクと暮らしていました。お勤めを果たし、クンヤーイ・トーンスクの世話を続けたのです。(クンヤーイ50歳)

クンヤーイ・トーンスク・サムデンパンが病で床に伏し、この世を去る

1960 年:クンヤーイ・トーンスクは子宮がんの末期で床に伏しました。その当時、治療薬がなかっただけではなく、強烈な臭いを発していたのです。しかし、クンヤーイは一切嫌な顔もせず、逆にクンヤーイ・トーンスクの体を拭いたり、掃除や洗濯をしたりと献身的に世話をしていました。そして、国内にいるクンヤーイ・トーンスクの弟子たちがお見舞いに訪れてもいいように、タイの香水で臭いを消したりしていました。臭いが原因で弟子たちに嫌われてしまわないようにしたのです。クンヤーイはクンヤーイ・トーンスクの傍らで、クンヤーイ・トーンスクがこの世を去るまで世話を続けました。(クンヤーイ51歳)

クンヤーイ、優秀な弟子に出会う

クンヤーイは世界中にタンマガーイの叡智を布教させなさいというルアンプー・ワットパクナム・パーシチャルーンの言葉を思い出しました。クンヤーイはタンマガーイの叡智を布教しなさいというルアンプー・ワットパクナムの言葉を受け継ぎ、実行できる者を見つけ、現れるのを待ちました。

1963 年:その当時、ルアンポー・タンマチャヨー(プラチャイヤブン・タンマチャヨー)はカセサート大学の学生でした。仏教に多大な関心を持ち、瞑想を学ぶためにクンヤーイの元に弟子入りを志願しました。すぐさま、瞑想が上達し、彼女からタンマガーイの叡智を受け継ぎました。(クンヤーイ54歳)

1966 年:パデット・ポンサワッディ、つまりルアンポー・タッタチウォーとルアンポー・タンマチャヨーが出会いました。ルアンポー・タッタチウォーは元々天国や地獄に関心を持っていました。そのため、クンヤーイに会いたいと思っていたのです。ルアンポー・タンマチャヨーがクンヤーイの元へと連れて行きました。彼女はルアンポー・タッタチウォーをもう一人の弟子として受け入れました。二人は大学の先輩後輩を数多く誘い、クンヤーイの元で瞑想しました。(クンヤーイ57歳)

バーン・タンマパシット

1967 年:クンヤーイが20年間暮らしていた小さな家は、時間と共に老朽化していきました。しかし、瞑想に訪れる人でいつも満員だったのです。日によっては家の外にまで溢れるほどでした。特に第一日曜日です。(クンヤーイ58歳)

弟子たちはどうにかしてクンヤーイの新しい家を建てようとしました。大学生のルアンポー・タンマチャヨーは率先して家を建てる資金を集めました。当時、副住職を務めていたプラパワナーゴーソンテーラ長老(ルアンポー・レック)が木造二階建ての家に“バーン・タンマパシット”と名付けてくれました。ワットパクナムの敷地内の北側にありました。建設が終わるとワットパクナムに寄進されました。この家は元の家からそう離れてはいませんでした。

1968:バーン・タンマパシットでも小さな家のときと同じ状況になりました。つまり、瞑想に訪れる人で溢れかえり、特に第一日曜日には二階から階段の下まで、一階は庭から門までの通路が人で溢れていたのです。(クンヤーイ59歳)

ルアンポー・タンマチャヨーの出家

1969 年:ルアンポー・タンマチャヨーはカセサート大学の農業経済学経済経営学部の学士号を修了しました。クンヤーイは彼が一般的に必要な知識を得たと確信すると、学問と実践の仏法的な知識が必要であると考えました。そこでこの雨安居で出家することを提案しました。ルアンポーは決意すると1969年8月27日、旧暦9月の白分の第15日、ワットパクナムの本堂でプラテーパウォンウェーティー(ワットパクナム・パーシチャルーンの現住職である大長老会議の相談役であるソムデットプラマハーラッチャマンカラーチャーン)を僧戒師に迎え、出家を執り行い、仏法によって勝った者という意味の法名“タンマチャヨー”を賜りました。(クンヤーイ60歳)

寺院建立を考える

1969 :僧侶となって1年目のルアンポー・タンマチャヨーはクンヤーイに瞑想し、タンマガーイの叡智を布教するのに適した新しい施設を建てることを提案しました。クンヤーイの仏教を広く布教しなさいというルアンプー・ワットパクナムの言葉を実現させる意志も相まってクンヤーイは寺院を建立することに決めました。(クンヤーイ60歳)

1969 :パヤッド・ペータヤポンウィスッタ夫人はパトゥムタニー県クローンルアン区クローンサームにある196ライの土地を寺院建立のために寄進してくれました。(クンヤーイ60歳)

梵行を誓うルアンポー・タッタチウォー

1970 :年の初め、ルアンポー・タッタチウォーは梵行を誓いました。そして、クンヤーイはルアンポー・タッタチウォー(当時はまだ在家)に196ライの土地の管理と寺院建設の監督を任せました。ルアンポー・タンマチャヨーとクンヤーイはバーン・タンマパシットで寺院建立の功徳を説き、瞑想を指導しました。当時の寺院建立の資金は3200バーツだけでした。(クンヤーイ61歳)

仏輪瞑想センターの建設開始

1970 年:2月20日のマカブーチャの日、ルアンポー・タンマチャヨーとクンヤーイ、弟子たちは協力して土地を整備し、仏輪瞑想センターの建設を始めました。その当時はまだ寺院ではありませんでした。“仏輪瞑想センター”と呼ばれていたのです。その日からクンヤーイは寺院建立を成功させるためにあらゆる面でルアンポーや建立に携わる人たちをサポートしました。(クンヤーイ61歳)

ルアンポー・タッタチウォーの出家

1971 年:ルアンポー・タッタチウォーは1971年12月19日にワットパクナム・パーシチャルーンで出家しました。そして、出家から1週間でクンヤーイから説法をするように言われました。(クンヤーイ62歳)

仏教継承者育成プロジェクト第1期生

1972 :ルアンポー・タンマチャヨーは若者や一般人に理論的、実践的にダンマを教えようと考えていました。生活の質を向上させる重要な役割を持つ心の成長を促すためです。それ以外にもクンヤーイはこの一団がルアンプー・ワットパクナムから引き継いだタンマガーイの叡智を布教させる力となると期待していました。だからこそ、1972年に第一回仏教継承者育成および集団出家プロジェクトが執り行われました。まだ食堂や瞑想施設もない溝や堤防を整備したばかりの土地の真ん中で総勢60名の大学生が参加しました。(クンヤーイ63歳)

平日は瞑想指導、土日は寺院建立の手伝いをするクンヤーイ

1970年‐1974年:クンヤーイはバーン・タンマパシットで過ごし、ルアンポー・タンマチャヨーはワットパクナムで過ごしていました。平日、彼らはバーン・タンマパシットと瞑想を指導し、土日になると196ライの土地で寺院建立の手伝いをしていました。

1973 年:雨安居が明けるとクンヤーイの弟子の僧侶たち、特に寺院建立に携わっている僧侶はワットパクナム・パーシチャルーンから仏輪瞑想センターに移りました。クンヤーイはバーン・タンマパシットに残り、物資を集め送りました。(クンヤーイ64歳)

仏輪瞑想センターに移るクンヤーイ

1975 :クンヤーイは1975年4月18日、ワットパクナムのバーン・タンマパシットを離れ、仏輪瞑想センターに移りました。彼女は早速規律を設けることにしました。クンヤーイは最初に196ライを囲む強固な壁を建てるように指示し、これは煩悩や愚かな者を阻むための壁と告げました。それから彼女はルアンプー・ワットパクナムと共に過ごした経験を元にした寺院内の規律を設けました。規律をボードに書き、全員が読めるように施設の横に設置しました。(現在そのボードは忉利天ビルに設置されている)彼女は基準を設け、あらゆるガイドラインを設定しました。これによって全員が計画的に働くことが出来るようになりました。瞑想場となる大きな東屋と僧房が完成し、寺院の建設作業は一段落しました。完成したばかりの寺院についてクンヤーイはこう述べました。“出家したばかりの僧侶に説法をさせても奥深い説法は出来ません。出来ることは、人々のよきお手本となることです。たとえ、些細なことでも寺院内を整頓します。靴の置き方から箒や雑巾、ごみ箱の片づけ方まで、生活のすべてを整理整頓します。それが私たちの心を穏やかにするだけではなく、説法を聞かずとも寺院に訪れた人々はこれを目にしてよきお手本とし、気持ちよく帰ることが出来るのです。”

タンマガーイ寺院への改名

1981 “仏輪瞑想センター”から“タンマガーイ寺院”へと改名しました。(クンヤーイ72歳)

2000ライとタンマガーイ国際ホール(多目的ホール)

約1985年:196ライに建設された説法堂では訪れる瞑想者を収容することが出来なくなりました。ルアンポー・タンマチャヨーとクンヤーイ・アーチャーン、タンマガーイ財団、信者たちは瞑想の中心地となる施設を建設するためにスワパン・サニッタウォン王孫の遺産から2000ライの土地を購入しました。最初に2000ライの壁のそばに新しい瞑想場となる東屋を建てました。藁葺きの屋根でコンクリートを敷き詰めてタンマガーイ国際ホールと名付けました。12000人を収容することが可能でした。(クンヤーイ76歳)

その後も各地から多くの人々が押し寄せ、藁葺き屋根のタンマガーイ国際ホールでは収容できなくなりました。そのため、瞑想や道徳教育活動、大きな儀式を執り行う際は何個もの仮説テントを借りなければなりませんでした。そこで1996年にタンマガーイ財団と信者たちは協力して強大なタンマガーイ国際ホールを建設することにしました。多目的の2階建てのホールで、2000ライの土地の中にあり、250ライの敷地がありました。収容人数は30万人を想定し、1階は1万台を駐車できる駐車場に、大小様々な会議室、各所に御手洗いを設置しました。

クンヤーイ、カティナ式で初めての主役を務める

1988:クンヤーイは1988年11月6日にタンマガーイ寺院で執り行われたカティナ式で初めての主役を務めました。(クンヤーイ80歳)

純金のルアンプー像を鋳造する

1994 年:ルアンポー・タンマチャヨーとクンヤーイ、そして弟子たちは恩返しのために1994年2月25日、ワットパクナム・パーシチャルーンの住職プラタンマパンヤバディ(ソムデットプラマハーラッチャマンカラーチャーン)を儀式の主賓に迎え、1トンの金で作られたルアンプー像を鋳造しました。(クンヤーイ85歳)

タンマガーイ大仏塔の建設開始

1995 ルアンポー・タンマチャヨーとクンヤーイ・アーチャーン、そして弟子たちはタンマガーイ大仏塔の建設を始めました。(クンヤーイ86歳)建設は何年にも及び、1999年12月21日にはタンマガーイ大仏塔の上部に設置されるタンマガーイ仏が完成しました。

純金のクンヤーイ像を鋳造する

1998 年1月1日:ルアンポー・タンマチャヨーと弟子たちは本堂の中庭で本人と同じ大きさの金のクンヤーイ・マハーラタナウバシカ・チャン・コンノックユーン像を鋳造する儀式を執り行いました。

純金の師の像を鋳造することは、彼らに対する弟子たちからの恩返しを表していました。この似姿をかたどった像が彼らの代わりであり、生きた証としたのです。そして、彼らの偉業と願意を思い出すためでもありました。さらに後世の人々が彼らの美徳を知り、功徳や波羅蜜を行なうお手本として精進できるためでもあります。

クンヤーイの健康悪化

1998年‐2000年:クンヤーイの健康状態が悪くなり、休息を多くとる必要がありました。クンヤーイは弟子たちを出迎え、教えることが出来なくなっていったのです。しかし、それでも毎日のようにタンマガーイ大仏塔の進捗を確認しに訪れていました。

クンヤーイ、この世を去る

2000年9月10日:早朝、クンヤーイはバンコクのカセムラート病院で穏やかにこの世を去りました。享年91歳、老衰でした。

クンヤーイの火葬

2002年:ルアンポー・タンマチャヨーと弟子たちは2002年2月3日日曜日、クンヤーイ・マハーラタナウバシカ・チャン・コンノックユーンの火葬を執り行いました。この儀式には全国3万カ所の住職や長老僧10万人を招請し、タンマガーイ寺院で執り行われるクンヤーイの火葬に参列していただきました。

クンヤーイ・アーチャーン・マハーラタナウバシカチャン・コンノックユーン記念ホール

彼女は弟子たちのため、そして大いなる功徳や波羅蜜を行ない、身体や言葉、心を成長させるブッダの教えを誰もが学べる場所として生涯を賭してタンマガーイ寺院を建立した偉大な師でした。ルアンポーと彼女の弟子たちはクンヤーイ・アーチャーン・マハーラタナウバシカチャン・コンノックユーン記念ホールをタンマガーイ寺院発足の地にある池の中州に建設することにしました。彼女を模した金の鋳造を安置し、タンマガーイの叡智や仏教に貢献したマハーウバシカの歴史を刻み、功績を称え、さらに自分の吉祥を願うために礼拝することのできる施設です。それと同時に彼女の美徳と恩を思い出すことが出来ます。善の源である黄金の山の如き、この記念ホールに訪れた人々は鼓舞、激励されて美徳善行を成す力を得られ、衆生を幸せにするためにこの世に生を受けたクンヤーイのように成功を収めることが出来るようになります。

2002年3月14日:クンヤーイを偲ぶ施設としてクンヤーイ・アーチャーン・マハーラタナウバシカチャン・コンノックユーン記念ホールの建設を開始しました。2003年9月10日に記念ホールが完成しました。

クンヤーイ・アーチャーン・マハーラタナウバシカチャン・コンノックユーン食堂

2003年:僧侶や見習い僧が食事を心配することなく、自己啓発や人々を導くためブッダの教えを学び、瞑想を実践できるように十分な食事を提供するというクンヤーイ・アーチャーンの願意に応えることにしました。

2003年1月5日日曜日、クンヤーイ・アーチャーン・マハーラタナウバシカチャン・コンノックユーン食堂の建設が始まりました。2004年7月31日土曜日に建設が終わるとすぐに使われました。この食堂は3200㎡の敷地と6000人の僧侶と見習い僧が一堂に食事することが出来ます。

クンヤーイ・アーチャーン・マハーラタナウバシカチャン・コンノックユーン100周年記念ビル

2009年:クンヤーイの100歳を記念し、ルアンポー・タンマチャヨーは弟子たちを集め、クンヤーイへの恩を表すことにしました。クンヤーイ・アーチャーン・マハーラタナウバシカチャン・コンノックユーン100周年記念ビルを建てることで彼女へのダンマ供養としたのです。

クンヤーイ100周年記念ビルは球状に建築され、時代を超えた普遍的な形をしています。斬新的なデザインで、まるで世界中を照らす太陽や月を表しているようです。クンヤーイが清潔と整理を基礎として寺院を発展させ、タンマガーイ寺院の“清潔、明るさ、穏やかさ”を象徴しています。

このビルは世界道徳の復興、世界中に仏教とタンマガーイの叡智の布教、さらに世界中の仏教組織や人々を結ぶ施設です。そして世界中の隅々までブッダの教えを称え、布教し、過去から現在、未来へと続くタンマガーイ寺院の波羅蜜活動を繋げる中心地です。

クンヤーイ・アーチャーン・マハーラタナウバシカチャン・コンノックユーンは確固たる意志を持ち、障害を賭して功徳波羅蜜を行なうよきお手本です。タンマガーイ寺院の創設者であり、タンマガーイ寺院を成功へと導いた立役者なのです。

彼女の思考、言葉、行動のすべてが純粋で清潔なものでした。それは彼女の粗大なお勤めからも証明できます。一般的な作業でも彼女は丁寧に事細かく、参考にすることが出来ました。一方、微細なお勤めである瞑想は熟練し、立ち居振る舞いは波羅蜜を行なうのに相応しく、まるで完璧にブッダの教えを実践してきたかつての僧侶を彷彿させました。たとえ、読み書きができなくとも熟達し、正確にダンマに基づいて実践していたのです。彼女の生涯は美しく、輝きに満ちていました。だからこそ、彼女は人間や天人に称えられ、尊敬に値する偉大な師なのです。衆生は彼女に対して計り知れない大恩があるのです。