ルァンポー・タンマチャヨーが語るルァンポー・タッタチウォーについて

 ローイカトンの日の出会い 

ルァンポー・タンマチャヨー :ローイカトンの日はルァンポーとルァンポー・タッタにとって歴史的な日でした。40年前の1966年、12月の満月の日のローイカトンの日に出会いました。

ルァンポー・タッタがまだ在家のときからルァンポーによく語ってくれました。なぜかは知りませんが彼は毎月の満月の日になると心がこの世界から離れ、逃げ出そうとし、瞑想をしたいと思うようになるそうです。ルァンポーは今でも覚えています。人ごみの中にいても、または何かを楽しんでいても彼の心は穏やかになります。そして、心から罪業や悪行が抜け出していくのです。彼はまるで孤独にあり、瞑想をします。これが彼の性格です。

ローイカトンの日の出会いは、丁度ルァンポーがワット・パクナム・パーシチャルーンから帰宅したときでした。クンヤーイ・アーチャーンとの瞑想が20時に終わるとクンヤーイは帰るように言いました。私は一人バスに乗って帰りました。大学の前に到着すると丁度イベントが催されていました。

ルァンポーは、不思議と子供を引き寄せる体質でその日も子供たちと楽しく遊んでいました。小さな子供から大きな子供までが見物に来ていました。遠くのスンタラーポーン・バンドが歌うのに飽きてルァンポーが子供たちと遊んでいる姿を見物に来ました。その中に一際かっこいい青年がいたのです。

彼はオーストラリアから帰国した学生で腕を組み、柄物のシャツを着てジーンズを履いていました。彼には2枚のジーンズがあり、一つは張飛、もう一つは関羽と名付けていました。その日は張飛を履いて来ていました。子供たちと遊び終えると彼は機嫌よく、ルァンポーを誘いました。ほら、行くぞ後輩。ルァンポーはそのときの言葉を今でも覚えています。ほら、行くぞ。俺が奢ってやる。ルァンポーは、その言葉についていきました。しかし、何を奢ってくれるのかは分かりませんでしたが、彼らについていきました。仲間たちもついてきました。何を奢ってくれるのかと思えばお酒でした。後輩、この一杯を飲みな。

ルァンポーには徳があり、善良で素敵な友人が助けてくれるのです。友人らは、ルァンポーは胃が悪いからと言って庇ってくれたのです。しかし、ルァンポーは五戒を守っているので飲みませんと正直に言いました。クンヤーイが戒律を守るようにと言ったからです。戒律を守ることで安心感があります。だからこそ、飲まないと断りました。なぜなら、五戒を守っているからと。彼は面を食らいました。

彼は後にこう語りました。この五戒を守っているという言葉でルァンポーを見つけることが出来たのだと。そして、一緒に住もうじゃないか、後輩と言いました。

どこに住むんですか、先輩。

一緒に牛舎に住むぞ。

 

 彼はダンマを尊敬している 

ルァンポー・タンマチャヨー:まだ学生だった時代、ローイカトンのイベント後に再開し、話すと気が合い、さらに私の問答が気に入ったようでした。なぜなら、彼は若者で五戒を守っている人がいるとは思ってもいませんでした。彼も以前は五戒を守っていました。だから彼は私を誘いました。私は平穏な暮らしをしていました。今になってもなぜあの時彼を受け入れたのか分かりません。

彼は自転車で迎えに来ました。彼は運転士で、私はただ座っているだけでした。到着すると彼は彼のベッドで寝るように言いました。それは不思議なことでした。なぜ後輩である私にベッドを使わせ、先輩である自分は床で寝たのか。彼はルァンポーよりも4年先輩でした。さらにカセサート大学の上下関係はとても厳しいものでした。後輩は先輩を敬わなければなりません。しかし、このような行動に出たのは、彼がダンマを尊敬していたからです。賢人らしくダンマを聞くなら、ダンマを説く人を敬います。ルァンポーはダンマを説いたつもりはありませんでした。ただ先輩が尋ねてきたから答え、楽しく会話をしていただけでした。しかし、なぜベッドを使わせたのかは不思議でした。

元は学生寮でしたが今は牛舎です。ただ牛舎にも特別なところがありました。それは牛乳工場があったことです。私は警備員と親しくなりました。警備員はこれまで波羅蜜についてのアドバイスをもらったことがなく、彼を見て可哀想だと思いました。来世でも警備員のままなのかと。だからこそ、彼を瞑想に誘いました。警備員と意気投合しました。すると、警備員は毎日1ケースの牛乳を持ってきてくれたのです。クンヤーイ・アーチャーンのところか帰ってくると1ケースの牛乳が置いてありました。善友としてルァンポー・タッタと分け合って飲みました。

毎日寝るのが深夜の1時や2時になりました。彼はどこから見つけてきたのか、様々な質問をしました。質問は寝ながらも繰り返されました。まるでうつらうつらと聞いているようでしたが、ベッドから転げ落ちそうになるような質問ばかりでした。しかし、不思議なことにルァンポーは彼の質問にすべて答えることが出来たのです。彼の問いに答え続けました。それは網戸が健在だったころから、後になって特殊な方法、つまり頻繁に開け閉めする事によって網戸が壊れ、手を突っ込んで開けられるようになるまで続きました。

彼はクンヤーイ・アーチャーンにとても会いたがっていました。ルァンポーにいつも何時なったらクンヤーイ・アーチャーンのところに連れて行ってくれるのかと聞いていました。ルァンポーは彼の問い掛けと彼がまだ張飛と関羽のジーンズを履いている姿を見て、これは何度も指導する必要があると思いました。できれば、千回は指導してから連れて行こうと考えたのです。今連れて行けば、クンヤーイ・アーチャーンから追い出されてしまうと思いました。

それから彼は夕方から2時、3時までダンマの質問をしました。信じられないことに牛舎での生活は、ダンマのことばかりで様々な質問を繰り返しました。振り返ってみると喜ばしいことです。波羅蜜の道で出会い、今では互いに支え合っています。

たとえ、私が4年下の後輩であっても、これがダンマに対する尊敬、彼の美徳です。これはこれから波羅蜜を行なう人が学ぶべき、よき手本となります。

 

 彼は涅槃への道を阻むものを捨てた 

ルァンポー・タンマチャヨー:ダンマの質問と神通力についての話しからブッダのことまで話した後、ルァンポーはついに彼をクンヤーイ・アーチャーンの元に連れて行くことにしました。その前に彼は彼の師に私を紹介しました。彼はただ紹介したかっただけです。彼は私を彼の師に紹介しました。ルァンポーも彼の師に会いました。彼の師は僧侶ではなく、在家でした。

彼に付き合ったので次は彼が私に付き合う番でした。それらが終わるとクンヤーイ・アーチャーンの元に連れて行きました。

彼があれこれ質問し、ルァンポーは質問に答えました。すると、少しずつお互いに理解し合いました。事実、彼はそれらの答えを自分でも調べられます。なぜなら、彼は読書家でした。ただの本の虫ではありません。彼は超本の虫でした。図書館の本はすべて読み、子供のころから博学で勉強熱心でした。彼をクンヤーイ・アーチャーンの元に連れて行くと、さらにダンマの研究と探求を続けました。そして、苦しみから解放される最上の術が何か理解した彼は、その術を熱心に学びました。一方、涅槃への道を妨げるものを彼はすべて捨てました。ただ捨てたのではなく、投げ捨てました。涅槃への道を妨げる術を、宿舎の前にある池の中に投げ捨てたのです。

彼は様々な黒魔術書を投げ捨てる前、不思議なことに彼は瞑想したのです。彼は一人で座っていました。しかし、その日は不思議なことに上の風通しの小窓から非常に早くノックする音が聞こえてきたのです。さらに部屋の4隅もノックしてきました。その小窓は床から3メートル以上の高さ、4メートル近くある高さに位置していました。こんな事ができるのは身長が3~4メートル以上ないと不可能で、また一方は水辺に面していたので、水の上を歩けないといけません。ルァンポーはこの音が聞こえるかルァンポータッタに尋ねると、いつも聞こえる答えが帰ってきました。

彼が黒魔術の教書をすべて捨てた夜、その術の主が現れました。教書の師は許しませんでした。そのとき、まだ術の返還の仕方を知りませんでしたので、彼は名残り惜しむこともなく、投げ捨てました。正しい方法ではなかったので術の主が現れたのです。

彼は話してくれました。彼はかかとしか見たことがありませんでした。全身を見たことはありません。それが姿を現すとゆっくりとかかとを使って彼の胸を撫でまわしました。彼は言いました。もし他の人であれば撫でまわされただけで口から血を噴き出していると。しかし、彼は前世の功徳に守られていました。彼は強い人でした。なぜなら、大学でチャンピオンになったことがあるほどです。彼は只者ではありません。彼はゆっくりとかかとを掴み、そして押し返しました。

そのときのことは夢ではなかったと思います。彼は言いました。かかとを掴み、押し返すと吹っ飛んで消える姿をはっきり見たと。その日から彼はもう振り返ることはありませんでした。

彼の気質は、有益なことがあればそちらを選び、有益ではないことは投げ捨ててしまいます。そして、もう振り返りません。何かに真剣に取り組むのであれば、それに全身全霊を掛けます。それからはお互いにダンマの研究を続けてきました。

 

 ルァンポー・タッタの本当の気質 

ルァンポー・タンマチャヨー:ルァンポーはクンヤーイ・アーチャーンと同じ気質をしています。それは内側に入ることが好きということです。内側にある中道に入り続けていくことです。クンヤーイは、彼女と瞑想するとき、会話は少しだけです。あまり多くを話さず、30年以上です。だから、瞑想の指導に向いていました。

しかし、説明が上手だったのはルァンポー・タッタでした。彼の気質は、説明上手なクンヤーイ・トーンスック・サムデーンパンに似ていました。しかし、ルァンポー・タッタまたはルァンポー・タッタチウォーの心の根本にあるのは、静寂を好みます。彼は若い頃から喧騒を避けていました。普通の若者は彼のようにはいきません。たとえ、何かを楽しんでいたとしても時間になれば、彼はカーンチャナブリー県の山奥や洞窟にいる徳の高い僧侶や特別な力を持つ僧侶の元を一人で訪ねます。

そして、彼はある一人の僧侶に出会いました。その僧侶は告げました。“パデット(彼の在家の時の名前)あなたのお腹の中には仏像があります。”ルァンポー・タッタは心の中で思いました。しかし、彼は師に対して尊敬心を持っている人です。それが世俗の師でも仏法の師でも関係ありません。彼は、心の中で人間のお腹の中に仏像があるわけがないと思っていました。

それから彼は師を探し求め続けました。様々な術に出会いました。彼がルァンポーに話してくれました。どんな術があったのかとクンヤーイ・トーンスクのように語ってくれました。

彼はルァンポーと出会い、クンヤーイ・アーチャーンの元に連れて行ったときに自分のお腹の中に本当に仏像があることを理解したのです。

 

 彼は寺院建立に携わった 

ルァンポー・タンマチャヨー:ルァンポーが出家したとき、僧侶は私一人でした。寺院建立の資金を集める人は数人しかいなく、当時はルァンポー・タッタがリーダーでした。彼はセールスマンで全国の市場を回っていました。その当時、プラスチック製の箱をクンヤーイ・アーチャーンに預けていました。そして、1か月経つと寺院建立の資金ため、彼はクンヤーイの元にお金を預けていたのです。その時はまだ土地がありませんでした。

ルァンポーは出家した翌日に寺院建立を考えました。そして、僧侶は21人いればいいと考えていました。そのため、寺院内の僧房は離れて建てるつもりでした。なぜなら、僧侶は21人いれば十分と考えていたからです。あまり多くするつもりはありませんでした。ただ出家したのは目をつぶって瞑想をしたかっただけです。瞑想に来る人がいれば、一人でも二人でも指導するつもりでした。こんなに活動するとは考えてもいなかったのです。

寺院建立を考えるとクンヤーイ・アーチャーンが主導してくれました。不思議なことに、クンヤーイがそのときに答えた規模が、200ライで水辺に近く、往来に便利で買うためのお金はないので無料の場所が必要と答えました。そして、それはすべてが実現したのです。

それからタウィンさん、そしてルァンポー・タッタと仲間の一人か二人と一緒にパヤッド・ペータヤポンウィスッタ夫人の元を訪ねました。彼女が地主です。私たちが訪ねた日は丁度彼女の誕生日でした。その日は彼女に土地を買い取りたいという話もしました。そのときはお金がないので分割で買おうと考えていました。

買い取りたいという話をしたら、彼女は土地を持っているが一度も見に行ったことがないと言いました。管理人がお金を集め、彼女に渡してくれていました。彼女は何に使うのか尋ねました。寺院を建てたいと答えると彼女は売らないと答えました。そして、しばらく押し黙ると彼女は寄進すると答えたのです。寺院を建てるために200ライすべてを寄進すると言ってくれました。そして、管理人がその土地まで案内してくれるとクローンサームの中心を指さしました。運河の横に公道を通すために4ライなくなり、196ライの土地でした。

土地を手に入れるとルァンポー・タッタに仕事を止めてもらいました。彼は仕事を止めてくれました。なぜなら、クンヤーイ・アーチャーンが自分で寺院建立の資金を集めると言ったからです。ルァンポー・タッタは寺院建立のために現場の監督をし、土を掘り返していました。最初の塊から掘り返し、運河まで掘り続け、完成させました。

ルァンポー・タッタは頑張ってくれました。常に大変な苦労をしながら波羅蜜を行なっていたのです。

 

 波羅蜜を否定することなく実行してきた 

ルァンポー・タンマチャヨー:彼は寺院建立の監督をしていたとき、寺院前に高床式の家を建てました。寝るときは床の上に固い紙を2枚重ねて置き、いつでも起きられるように寝ていました。彼は言いました。誰かが床の隙間からナイフを刺したとしても届く前に固い紙が防いでくれるからと。そして、家を建てるときは用心して干し草から放して建てました。彼はとても用心深かったのです。

彼が土を掘る作業の監督をしているとき、彼はクンヤーイ・アーチャーンからお金を引き出しにいきます。クンヤーイ、明日彼らにお金を払わなければなりません。クンヤーイは短く、はいと了承しました。クンヤーイは何も言いませんでした。クンヤーイ、明日お金を取りに来ます。クンヤーイは同じように短く、はいと了承し、何も言いませんでした。クンヤーイ、明日お金を取りきに行きますと。このようにクンヤーイに3回伝えました。クンヤーイは簡単に、はいとしか答えませんでした。不思議なことに薄い茶色の封筒は、お金を取りに来るたびに誰かしらがお布施に来たのです。それが毎回続き、ついには完成しました。

出家を迎えると彼には高い功徳がありました。ルァンポーが出家をしたときは20人ほどしか集まりませんでした。人ぞれぞれですが、ルァンポー・タッタのときは1000人ほど集まり、座る場所がないほどでした。

出家を終えると彼は僧侶の指導を始めました。彼は師僧となって指導に携わり、苦労し続けてくれました。そして、住職を決めるとき、先に出家していたルァンポーが住職に就きました。しかし、実務は彼が行っていたのです。ルァンポー・タッタ、またはルァンポー・タッタチウォーがすべての負担を受け持ってくれたのです。

ルァンポーは、彼から無理や出来ないなどのどんな弱音も聞いたことがありません。いつも耳にするのは、出来るや任せろという言葉だけでした。断られたことがありません。常に言ったことを実行し、共に波羅蜜を行なってきました。何でも実行し、不快になったことがありません。

 

 彼は一度も文句を言わず、喧嘩したこともない 

ルァンポー・タンマチャヨー:50年前のことを振り返ると喜びでいっぱいです。彼との功徳や波羅蜜を行ない続けてきた時間で今まで一度も喧嘩になったことはありません。誰かに話しても信じてもらえません。喧嘩や対立したことがありません。普通、共同で仕事をしていれば、どこの職場でも対立があったりします。

しかし、ルァンポーとルァンポー・タッタは一緒に波羅蜜を行なう中で対立したことがありません。思い出さなければ何の不思議もありませんが、思い出してみるとそれは不思議なことです。ルァンポーが彼に喧嘩を吹っ掛けたとしても、それが成功したことはありません。なぜなら、彼は冷静だったからです。もし冷静でなければ遠ざかります。二人でいるところでルァンポーが一人だけ話すのも可笑しな話です。だから彼と話をしますが、彼は遠ざかっていきますので話す人がいなくなります。

彼は喧嘩をしません。対立することと言えば、寺院建立のことです。

例えば、土を掘り起こすのが終わり、ルァンポーは彼と仲間を連れて寺院の後ろのあぜに立ちました。その当時はまだ壁がありませんでした。その辺りはまだ畑でした。その当時、196ライも作れば息も絶え絶えです。彼はとても疲れていました。ルァンポー・タッタはとても疲れていましたが、彼からは一度も文句の一言も聞いたことがありません。これも彼の美徳です。疲れていても文句を言いません。

その日、並んで立ちました。まだ皆若者でした。ルァンポーは言いました。この196ライが終わったら、次はここです。市役所の前からあちらまでの2000ライです。彼はあぜから降りていきました。ルァンポーが振り返ると全員が居なくなり、一人だけ残されました。彼は小言を聞かれないように離れたようでした。その小言も多分、196ライでもう息も絶え絶えなのに、さらに2000ライともなれば今度こそ息絶えるだろうというものだと考えました。

喧嘩をしないことは、あらゆる波羅蜜を行なう者が習慣として身に着けるべきです。なぜなら、それが今に至るまで活動を発展成功させたのです。どんな障害があったとしてもあったとしても、私たちの活動は続きました。

ルァンポー・タッタの美徳はまだまだあります。

 

 彼は明るい光を与える者としての役割を止めたことがない 

ルァンポー・タンマチャヨー:寺院建立を始めた当時、クンヤーイ・アーチャーンは彼女がもっとも大切にした場所を離れました。そこはワット・パクナム・パーシチャルーン、ルアンプーから叡智を学んだ場所です。ルアンプーがこの世を去った後も数多く叡智を教える者がいました。だからこそ、クンヤーイは寺院建立の主導者になってくれました。あるのは心と体だけ、土地が一つ、畑だけど何も植えることが出来ません。クンヤーイは彼女の若い弟子や孫弟子を連れて寺院を建て始めたのです。

寺院建立当初、ルァンポー・タッタチウォーまたはルァンポー・タッタがいました。当時はまだ出家していなく、すぐに建設に取り掛かりました。当時は苦労しました。

バンカーンから寺院までは所与時間は今とほとんど変わりません。しかし、その当時渋滞はありませんでしたが、道路が悪く穴だらけでした。到着するまでに30分もかかりました。今も30分ほどかかりますが、それは発展したことで渋滞するようになったからです。思いもしませんでした。30年前、ここは誰もが見向きもしませんでした。土地は1ライ3000バーツで寺院の前の土は粘土で車を走らせれば、運河に落ちていました。どんなに大変でも建設を続けたのです。

彼が出家した後、彼は第1期の僧侶を指導しました。青空の下で小さなテントを張って指導していました。まだ建物は一つもなく、テントの中で瞑想をしていたのです。座り疲れたら歩く瞑想を太陽の下でしていました。頭には、水につけたタオルを置く必要がありました。

ルァンポー・タッタ、またはルァンポー・タッタチウォーが指導してくれていました。さらには教書や寺院を訪問する前にという本も書いてくれました。それは寺院に訪れる際の正しい作法を全員に知ってもらうためでした。世界中にある寺院を訪問する際は、まずこの本を読んで学ばなければなりません。そうすれば、正しい作法で寺院を訪問することができ、人々の尊敬を集めました。

年齢を重ねても彼はブッダの教えと経験をまとめ、編纂して多くの本を書き、私たちの学習に役立てています。さらには全国仏教教理コンテストやWorld-Pec、他にも様々なテストで使われています。

たとえ、70歳になっても彼は壇上で説法を続け、明るい光を与える者としての役割を止めることはありません。

 

 彼は世界のよき模範である 

ルァンポー・タンマチャヨー:いつの間にかルァンポー・タッタも70歳を超えます。まだ肌が白く、髪が黒い頃か(ら)共に過ごし、40年の月日が流れ、今では肌は黒く、髪は白くなりました。家族よりも長い付き合いです。なぜなら、家にいたのは数年です。ルァンポーと出会ってから彼は苦労しています。それは今でも続いています。

ルァンポー・タッタの人生は僧侶として立派であり、波羅蜜を行なう者としても立派です。彼は悪い部分を少しずつ無くしていきました。欠点があれば彼は、肉体や言葉、精神だろうと悪いことを重ねません。少しずつ無くしていきます。なぜなら、ルァンポーは彼の変化を常に見てきました。肉体や言葉、精神が徐々にきれいになってきたのです。彼は世界のよき模範となれます。ルァンポー・タッタの誕生日になるとルァンポーも詩を贈ります。ルァンポーの方法で。詩の書き方を知りませんでしたが、見本となるものがありました。例えば、1997年12月21日の前、そのとき初めて詩の書き方を学び、子供たちと一緒に詩を書きました。子供たちはアドバイスをくれました。彼らと楽しく練習しました。12月21日を迎え、ルァンポー・タッタのために詩を贈りました。

 

タンマガーイのように ルァンポーが老い

老いるほど輝き 透き通る

たるみ しわはない

説法は美しい調べを奏で 誰よりも極上である

 

 私たちのルァンポー・タッタ 

ルァンポー・タンマチャヨー:思い出すと今で感動します。彼は出家する前からも出家した後も一分一秒を欠かすことなく、波羅蜜を行ない続けました。今ではタイ国内だけではなく、各国を巡っています。彼は各地を回っているのです。彼はとても疲れていると思いますが、波羅蜜を行なうために我慢しているのです。

ルァンポーは我々にとってルァンポー・タッタの説法を聞くチャンスがあるのは運の良いことだと思っています。彼の知識と経験が年齢と共に蓄積された説法です。しかし、どれくらい我々に説法を聞かせるだけの声と体力が残っているか分かりません。

だからこそ、彼から説法を聞くことの出来る絶好の機会を逃さないようにしましょう。そして、彼が命を掛けて学生の頃から今に至るまでに行った仏教活動や波羅蜜の功徳の一部となれるように、彼へダンマ供養する機会を作りましょう。今では長老、年齢も高くなり、僧団を率いる僧侶です。そして、私たちのルァンポー・タッタ、ルァンポー・タッタチウォーになったのです。