我らの偉大なる師

ルアンポー・タッタチウォー

“パデット、自分の体を大切にしなさい。これからあなたの名が轟けば、それだけ仏教の名が轟く。”

それが直感なのか、それとも瞑想に必死に取り組む青年の姿を見て大成すると感じたのか分かりませんが、瞑想指導で有名なカーンチャナブリー県のワット・カオレームのルアンポー・ブンタムは亡くなる数年前に予言を残しました。

それから50年以上の月日が流れると同時に何倍にも重ねてきた功徳と波羅蜜によって、あの日の17歳の青年は今80歳以上の長老僧になりました。予言通りにタンマガーイ寺院パデット タッタチウォー (ルァンポー・タッタチウォー)の名声は大陸中に轟きました。

彼は世界中を巡り、数多くの人を光へと導き、平穏を与えました。

その長い道のりでのあらゆる苦難や逆境に遭遇しようとも彼の口からは一度も“弱音”が漏れたことはありません。

彼には、波羅蜜を行なう者はあらゆる困難やコンディションに左右されてはいけないという信条がありました。だからこそ彼は命を掛けて全力で波羅蜜に取り組んだのです。律に従い、自らを啓発し、さらに人々に教えを説き、導きました。寺院を建て、僧侶を育成し、人生を育て、世界に平和をもたらそうとしてきたのです。

“タッタチウォーは、仏教に命を捧げる者であるという意味である。”

それは波羅蜜を行なう者の模範となる師、またはルアンポーの揺るぎのない願意なのです。

ルァンポー・タンマチャヨーが語るルァンポー・タッタチウォーについて
タンマガーイ寺院設立におけるルァンポー・タッタチーウォーが果たした役割
タンマガーイ寺院設立におけるルァンポー・タッタチーウォーが果たした役割

 波羅蜜を行なう道のり 

ルアンポー・タッタチウォーの本名はパデット・ポンサワッディと言います。彼はカーンチャナブリー県の農家に生まれました。1940年12月21日土曜日、父スン・ポンサワッディと母フヤイ・ポンサワッディの間に生まれました。

彼の父は勤勉かつ一般の農家よりも先を見据えていました。そのため、子供への指導も熱心で子供たちは優秀な成績と品行を身に着けました。さらにルアンポーの性格は勉強熱心で、若い時から瞑想に取り組んでいたのです。彼がカーンチャナブリー県のウィスットランシー校に在籍していた頃、彼は本を読むのが好きで読書が趣味でした。ジャンルを問わず、すべてを読んでいました。その地区にあった図書館の本すべてを彼は読んでいました。

特に彼が興味を持ったのが瞑想に関する本でした。その中でもブッダゴーサの主著である清浄道論の瞑想法に興味を持ちました。この経典を読み終わった後、彼は瞑想を実践したいと思いましたが、自分で実践してみてもあまりよい結果を得られませんでした。そこで瞑想の師を探したのです。しかし、運が悪いことに最初に出会った師が神通力を求める師でした。そのため、彼は一時期迷走していました。不死身の肉体を求めたり、火渡りをしたりと様々なことをしました。その時はこれらが外法であることに気が付かず、仏法であると勘違いしていました。

それでも常に彼が心に抱いたのは天国や地獄の知識でした。そのため、いかに神通力を身に着ける方法を学ぼうとも、天国や地獄の知識への渇望は消えませんでした。彼はその知識を持つ師を探し求め続けたのです。時には山や森に入り、様々な師から瞑想を学びました。機会さえあれば天国や地獄について尋ねました。しかし、一度も納得のいく答えを得られませんでした。師によっては天国や地獄は実在し、天人や天女は存在するといいますが、それらは言い伝えをただ信じているだけに過ぎませんでした。実際に行ったことがあると断言する師はいませんでした。

功徳への道がまだ開かれていない彼は、高校時代を不死身の肉体や火渡りを身に着けることに捧げました。そして、1960年カセサート大学農学部に進学したのです。

 善き友との出会い 

彼の過去の功徳が実を結び、引き返すことの出来ない泥沼に嵌ってしまう前に善き友に出会いました。それは彼がカセサート大学の畜産科学士号の単位を取るためにオーストラリアから帰国したときにまだ大学4年生の後輩であるルアンポー・タンマチャヨーと出会いました。その時のことは一生忘れられません。

その日は1966年11月27日日曜日で丁度ローイカトンの日でした。その日の夜、彼は酒瓶を手に後輩たちにお酒を注いでいました。多くの後輩は注がれたお酒を喜んで飲みましたが、一人だけ拒否しました。さらに彼の心に刺さる理由で拒否したのです。それが戒律を守っているからであると。なぜなら、以前不死身の肉体を身に着けるための瞑想をしていたときに彼も五戒を守っていたからです。彼は心の底でこの後輩は只者ではないと思いました。しかし、その日の夜は悪酔いしていたため、その後輩の顔を覚えておらず、名前を聞いていませんでした。

翌日、酔いが醒めると戒律を守っているといった後輩を探し、ついに見つけました。そこで後輩の名前がチャイヤブン・スティポンであると知りました。酔いのない状態で顔を合わせ、話してみると彼を気に入りました。信を置くことのできる弟子として迎え入れようと思い、不死身の肉体を身に着ける方法を教えようとしました。しかし、それを教える前に仏法を体得している程度を知る必要がありました。そして、互いに仏法を体得している程度を確かめるために問答を始めました。まずは基本的なことから始まり、さらに三蔵に関する専門的なことまで問答しました。彼自身も多くの論文を読んでいたため、問答も多くなりました。何日も問答を繰り返し、互いに熱を出してしまいました。何を問いてもすべて答え、まったく衰える気がしませんでした。最初は弟子として迎え入れようとしましたが迷いが生じました。なぜなら、後輩の方が仏法を体得している程度が自分よりも上だと思ったからです。

そして、最後の問いが残りました。つまり、天国と地獄に関することです。この問いかけをしながら考えました。もし他の人と同じように曖昧な答えならば、三蔵の知識に関しては称賛できると。しかし、その答えは明確で確信を持って天国と地獄はあるというものでした。さらに天国と地獄に行くことが出来る人が実際にいます。それがワット・パクナム・パーシチャルーンにいるメーチーであるクンヤーイ・アーチャーン・チャン・コンノックユーンです。

パデットさん、これは100%真実です。もし、パデットさんが自ら天国や地獄に行きたいのであれば、彼女が教えてくれます。

この後輩の仏法の知識と体得している程度は明らかであることを認めました。その日から彼はルアンポー・タンマチャヨーを師と仰ぎ、たとえ後輩であっても驕りを捨て喜んで弟子となりました。それはカセサート大学の厳しい上下関係を超越したものでした。一緒にいるときは、敬意と尊敬から常に上座に座らせていました。

 クンヤーイ・アーチャーンとの出会い 

ルアンポー・タンマチャヨーの言葉、クンヤーイ・アーチャーンが天国と地獄を知り、行く方法を教えてくれるというものは、ルアンポー・タッタチウォーにとって非常に喜ばしいものでした。しかし、クンヤーイ・アーチャーンに会うことは簡単なことではありませんでした。なぜなら、クンヤーイ・アーチャーンはメーチーで高齢、さらに静寂を好み、騒がしい人があまり好きではありません。そこでルアンポー・タンマチャヨーはまず初級瞑想の基礎を改善し、礼儀作法を彼に教えました。約3か月、クンヤーイ・アーチャーンに会わせる準備が整いました。

初めてクンヤーイ・アーチャーンに会ったにも関わらず、まるで交友があったかのように彼女への尊敬が芽生えました。喜びのあまり案内人との約束を忘れ、尋ねました。

“クンヤーイ。チャイヤブンさんがクンヤーイなら天国と地獄に連れて行ってくれるというのは本当ですか。”

“本当ですよ。私は地獄にいる父を救ったことがあります。”

一切迷いのない言葉を聞き、彼は自分に言い聞かせました。今やっと探し求めていた本物に出会えたのだと。尊敬の念はさらに増していきましたが、まだ挨拶もせずにさらに尋ねました。

“私でも見に行くことが出来ますか。”

“行けますよ。あなたには功徳があります。だから、ここにいます。なので、あまり時間も掛からずに行けるようになるでしょう。”

その日からルアンポーはクンヤーイ・アーチャーンに心酔し、心身共に捧げて教えを受け入れました。まるで前世から彼女の弟子であったかのように。

クンヤーイ・アーチャーンとの最初の頃の瞑想は、彼にとって様々な困難がありました。それは瞑想を始めると息苦しさを感じ、我慢できないほどの苦痛でした。そこでクンヤーイに助けてもらいながら徐々に改善していき、それらの症状は消えていきました。クンヤーイはその原因についてこう話しました。

“あなたは外法をかなり習っていました。それらの師が別の道へ行くのを阻んでいるのです。”

彼は不屈の精神と思いやりを持ち、何事にも真剣に取り組み、人生を捧げます。そう遅くないうちに彼のダンマは段々と進歩していきました。そして、ワット・パクナム・パーシチャルーンのバーン・タンマパシットに訪れる信者の瞑想指導を補佐するくらいにまでなりました。クンヤーイ・アーチャーンが彼を瞑想指導の補佐に任命した理由はあとになってルアンポー・タンマチャヨーから聞かされました。

“クンヤーイは褒めていました。パデットさんには頑固さや高慢さがなく、やるべきことを理解しています。さらに孝行者です。クンヤーイに何を言われても怒りません。クンヤーイは、パデットさんにはひねくれた性格がないからこそ、人にものを教えることが出来ると言っていました。”

1969年、ルアンポー・タンマチャヨーが在家を捨て仏教にすべてを捧げるために仏門に入った後、クンヤーイは仏教をさらに布教するための寺院を建てるという考えがありました。それはルアンプー・ワットパクナムが亡くなる前に託した務めを果たすためです。クンヤーイはバーン・タンマパシットの弟子を連れ、寺院を建てるための土地が手に入るようにと発願しました。それからしばらくして1969年の年末に望んだ通りの寺院を建てるための土地を手に入れました。パラヤッド・ベータヤポンサウィスタ夫人からパトゥムタニー県にある196ライの土地が寄進されました。土地を手に入れると1970年の年始から寺院の建立に着手しました。

当時、ルアンポー・タッタチウォーはある民間企業の販売部門で最高責任者を務めていましたが、寺院の建立が始まると誰もが求める地位や収入を捨て、寺院の建立に全力を注ぐために会社を辞めたのです。それは飯の食い上げになるようなことで命を掛けるような行為でした。

 僧侶としての生 

ルアンポー・タッタチウォーは1970年の年始から一生梵行を続けると宣誓してからも、初期の頃は寺院の建立に掛かり切りで出家のことを考えている暇がありませんでした。クンヤーイは彼の宣誓が無駄になってしまうことを心配し、ある日彼の目を覚まさせました。

“パデットさん、あなたは俗世にはいられません。なぜなら、あなたは心が広く、どんな財産も人にあげてしまうでしょう。家庭を持ってもヴェッサンタラ王子のように苦労します。”さらにクンヤーイは続けました。

“あなたは波羅蜜を行なうために生まれてきたのです。出家しましょう。そうすれば、望んでいたものがすべて叶うでしょう。あなたは努力家です。あなたには悟りへと至る可能性があります。だからこそ、出家しましょう。私が日取りを決めてあげます。”

そして、ルアンポー・タッタチウォーは1971年12月19日にワット・パクナム・パーシチャルーンの本堂で出家をしました。プラテーパウォンウェーティの僧階に就いていたソムデットプラマーハーラーチャマンガラーチャンが僧戒師を務めてくれました。

 素晴らしき師の活動 

ルアンポー・タッタチウォーの僧侶としての生活は、常に仏教活動への献身的な生活でした。出家してから数えて40年間、律に従った自己啓発だけではなく、彼は寺院建立メンバーとの願意に従った活動をしています。それは寺院は寺院らしく、僧侶は僧侶らしく、人を道徳のある善人に育成するという思いです。彼がルアンポー・タンマチャヨーから任された務めは、僧侶や見習い僧、優婆塞、優婆夷、そして数多くの信者の育成を監督することです。

ルアンポー・タッタチウォーは勉強熱心で原因を観察し、分析する人でした。そのため、彼は様々な分野において専門的な知識を持っていました。それは律に関することだけではなく、歴史や地理、組織運営、建設、健康管理など多岐に渡りました。このことから彼は僧侶や見習い僧、優婆塞や優婆夷などの弟子たちから次のように称賛されていました。

“ルアンポー・タッタチウォーは、我らの偉大なる師である。”

この言葉は彼の本質を的確に捉えています。

なぜなら、彼が好み、献身的に活動し、成果を上げた活動が“教育”でした。誰もが彼の教えは、深く明確でいて聞きやすいと語り、さらに彼こそが真の教師として相応しい戒律や礼儀作法を身に着けていると称賛したのです。つまり、数多くの弟子たちに指導できる優秀な師ということです。

彼はダンマをこよなく愛し、四梵行が堪能だっただけではなく、さらに偉大な師に対する尊敬と報恩の心を持っていました。偉大な師の指示や願いに彼は毎回志願し、取り組みました。そして、大小に関わらず、責任を持って取り組む性格もあり、またグループの活動を見逃すことなく、毎回参加し、責任を持って取り組みました。それは常に寺院建立や仏教布教の重要な力となりました。

だからこそ、言えるのです。クンヤーイ・アーチャーン・マハーラタナウバシカ・チャン・コンノックユーンとルアンポー・タンマチャヨーに加え、ルアンポー・タッタチウォーの存在がなければ、今のタンマガーイ寺院は存在していなかったのだと。

 プラパデット・タッタチウォー 

役職:現タンマガーイ寺院副住職 タンマガーイ寺院国際部北米およびヨーロッパ責任者

出生:1940年12月21日

学歴:バーンケーン区カセサート大学農業および畜産科卒業 オーストラリアのハークスベリー大学畜産技術科卒業

出家 : 1971年12月19日、バンコクのパーシチャルーン区ワット・パクナムの本堂にて出家